中村勘三郎 (初代) (Kanzaburo NAKAMURA (the first))

初代中村勘三郎(しょだい なかむら かんざぶろう、慶長3年(1598年) - 万治元年6月9日 (旧暦)(1658年7月9日))は、江戸時代初期の歌舞伎役者。
屋号柏屋。
紋は鶴、銀杏で京の生まれ。

山城の武士中村勘兵衛の次男。
兄の狂言師、中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、その経験を生かして、生涯の傑作、舞踊『猿若』を創作したという。
1622年(元和 (日本)8年)江戸に行く。
1624年(寛永元年)2月15日、猿若勘三郎と名乗る。
同年江戸市内の中橋南地に劇場『猿若座』のちの『中村座』を建て、彼はそこの支配人(座元)となる。
3月に興行開始。
これが江戸における歌舞伎興行の始まりとなる。
以後勘三郎代々が中村座座元として経営に携わり、中村座は江戸で一番の権威ある劇場となる。
やがて『猿若舞』が江戸中の人気を集め、1633年(寛永9年)、勘三郎は幕府の御用船『安宅丸』回航の際に船先で『木遣り音頭』を唄い、将軍家より陣羽織を拝領する。
その後しばしば将軍家に招かれ『猿若舞』を躍り名声を獲る一方、『中村座』の焼失や奉行所からの取り締まりにも悩まされる。
1657年(明暦3年)の明暦の大火では中村座を失い、5月江戸を離れて一時故郷の京に上がる。
京では後西天皇の御前で『猿若舞』『新発智太鼓』を実子の中村勘治郎(のち中村勘三郎 (2代目))とともに上演。
褒美にビロード地に丸に三つ柏紋の羽織、勘治郎には『中村明石』の名をそれぞれ賜る。
9月に江戸に帰り中村座の経営と俳優業を勤めたとされている。
出雲阿国以後に現れた重要な歌舞伎役者の一人、中村座開祖で、中村姓の歌舞伎役者の始祖でもある。

戒名は道順。

また、出自の異説として中村一氏の末弟・中村右近の孫の勘三郎と同一人物であるという説もあるが、定かでは無い。

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